1987年頃にコーネル・スウェンが作成した再建予定の「ビンビンビ」の建物の見取り図。 パストラルギャラリーは二つの居住空間の間、中央に位置している。

1987年頃にコーネル・スウェンが作成した再建予定の「ビンビンビ」の建物の見取り図。 パストラルギャラリーは二つの居住空間の間、中央に位置している。

パストラル・ギャラリーの歴史

メレディス・ヒンクリフ

 

 

 

コーネルと博江は、ニュー・サウス・ウェールズ州クィンビアンの郊外にパストラル・ギャラリーを建設し、運営した。アーティストが主宰する画廊の先駆けであり、このギャラリーは高い評価を受け、30年にわたって成功を収めた。

パストラル・ギャラリーの構想は、1965年にグラフィックデザイナーでアーティストのコーネル・スウェンが、京都で武部博江に出会ったときに生まれた。

彼は博江が陶芸家であり、夜に小さな飲食店を経営していることを知り、彼女がプロのアーティストになるという決意を固めていることに強く心を打たれた。博江の手びねりによる陶芸作品を一目みて、それが卓越した芸術性をそなえ、独自のやり方で、ヨーロッパ近代の抽象絵画の影響を取り入れたものであることがわかった。

1966年にふたりは結婚して、京都で2年間一緒に暮らしたあと、オーストラリアで自分たちの画廊をもち、それを完全に自主的に運営することで、アーティストとして自立して、外部の制約を受けずに制作できるようになることを夢みた。

画廊の運営方法について、かれらには非常に明確な考えがあった。観客を「教育」するというのもその一つで、ある特定の作品にはなぜその価格に見合うだけの価値があるのか、ある作品がどうしてほかの作品よりも「優れている」のかを、潜在的な買い手に理解してもらう必要があると考えた。通常、画廊の経営者やスタッフが来場者と交流したり、展示作品を解説したりすることはほとんどないが、それは怠慢だとコーネルと博江は常々感じていた。

1968年にオーストラリアに居を移したのち、かれらはシドニーのダーリングハーストにあるコーネルのスタジオ兼自宅に住み、制作を始めるつもりだった。しかし、その敷地内に陶芸用の工房を建てるのが不可能であったため、シドニーの南側に小さな田舎の土地を探すことになった。

博江はキャンベラで非常勤講師として働かないかと請われた。その後、コーネルは同じキャンベラにある移民局の上級ジャーナリストの職に応募して見事合格した。ふたりはキャンベラ郊外に「ビンビンビ」1 と名付けられた22ヘクタールの羊牧場を購入した。

博江の展覧会がメルボルンとシドニーのギャラリー、及び、キャンベラの日本大使館で成功を収めたことに後押しされて、かれらは一刻も早く自分たちの画廊を開くべく、努力を重ねた。

ふたりの夢である画廊の建設がいよいよ始まった。敷地内の建物は半分だけ完成していて、非常に独特な構造をしていた。ずらりと並んだむき出しの垂木がグラスファイバー製の円形屋根を支えており、室内には明るい自然光が降りそそいだ。そのおかげで展示作品には均質な光があたり、画廊の展示空間の魅力を引き立てた。コーネルは内装に手を加えて、特別展示室をつくる作業に着手し、ベランダを改造して、居心地のよい展示空間を作った。グーゴン・ヴァレーの壮大な景色が、画廊の静寂と広々とした空間に映えた。

パストラル・ギャラリーの開廊を記念する展覧会が、1973年11月に開催された。告知された開場時間のかなり前から来場者が集まり始めていた。それはいかにもこの画廊らしいやり方だったが、予定時刻よりもかなり早かったにもかかわらず、夫妻は快く人びとを館内に招き入れた。

作品の展示方法には細心の注意が払われた。表面の装飾やフォルムを通して、作品同士が会話しているようだった。

館内デザインの主要なモチーフとして、間取り、埋め込み式陳列棚3台、展示用台座などに六角形が用いられた。陳列棚は隙間なく組み合わされ、空間と建材を効率的に活用していた。この六角形は見ていて心地のよい形で、ロゴのような役割を果たし、コーネルが画廊のためにデザインした文房具や、クリスマスカードをはじめとする印刷物にも用いられた。

当初は、博江の作品だけが展示されていた。ほかの陶芸家に参加を呼びかけたこともあったが、買い手は博江の作品だけを欲しがった。ろうけつ染め絵画を制作する時間がとれるようになると、コーネルも自分の作品を展示した。

数年後、コーネルは南向きのアトリエを建てて、ろうけつ染め絵画のための工房とし、博江の両親のために住居を増築した。どちらの建物からも中庭を見下ろすことができた。この増築部分とギャラリーのほとんどは、残念ながら1986年の火災で焼失してしまったが、ふたりは自分たちのギャラリーの運営を諦めることはなかった。デザインを改良して、より大きな規模で再建すると1988年に再びオープンした。

1994年、染料の毒性による健康問題が深刻化したため、コーネルは染色絵画の制作を中止した。

ほぼ毎年開催される博江の展覧会の資金・運営的側面、物理的な作業のほとんどをコーネルが引き受けてくれたおかげで、博江は創作活動に専念することができた。

パストラル・ギャラリーは、当時のオーストラリアの画廊のなかで特殊な位置を占めていた。アーティストが独自に運営し、展示・価格・時期・観客についてあらゆる決定権を持っていた。ふたりの画廊は経済的にも芸術的にも大きな成功を収めた。

毎年のように山火事の危険にさらされ、雑草の除去作業を必要とする広大な土地に住み、30年あまりにわたって画廊を運営してきたが、夫妻は生活を縮小することに決めた。そして、熱烈な支援者たちに惜しまれつつ、2003年にパストラル・ギャラリーはその幕を下ろした。

しかし、その後も、博江の展覧会は継続的に開かれている。2000年には回顧展「スウェン博江の陶芸1965年から2000年」が、ノース・ビルディング内に移転したクラフトACTのこけら落しとして開催された。その後も、西オーストラリア、オーストラリア国立大学のドリル・ホール・ギャラリー(キャンベラ)、ニュー・サウス・ウェールズ州タンジャのナレック・ギャラリーズ、キャンベラのワトソン・アーツ・センターにて、ごく最近では、2020年にミタゴンのスタート・ギャラリーでも作品を発表している。

2022年7月

 

1 先住民の言葉で「たくさんの鳥がいる場所」の意。

メレディス・ヒンクリフ(AM*)

メレディス・ヒンクリフ(AM*)

作家、評論家として活躍する傍ら、国や地方の文化団体の資金援助や芸術擁護の活動もおこなっている。1970年代半ばに、クラフトACTの初代常勤職員として勤務。その後、キャンベラ国立彫刻フォーラムの委員会に参加し、長年にわたり、オーストラリア・ダンス会議の首都特別地域支部(オスダンスACT)の議長を務めた。スウェン博江の陶芸に関する文章を数多く執筆・出版している。

本プロジェクトでは、エッセイと略歴の執筆を担当した。

〔*AMは特定の分野で優れた貢献をした個人に贈られるオーストラリアの勲章〕