陶芸作家 スウェン博江 略歴

メレディス・ヒンクリフ

 

1934年にスウェン博江は京都で生まれた。幼い頃から好奇心と独立心が旺盛だった。川遊びがしたくて、友だちを誘ってふたりで幼稚園をさぼったこともあった。

高校在学中、画家である教師から本格的に西洋油彩画をまなび、それが美術にめざめる第一歩となった。油絵で文化部門の最優秀賞を受賞して、その後、油絵の道にすすむことも考えた。高校卒業時に、東京の著名な油絵画家から弟子にならないかという誘いを受けた。

博江は、高校を卒業すると、ろうけつ染めの勉強をはじめた。実家が着物の染料に関わる商いをしていたことから、染色は知らない世界ではなかった。まもなくテキスタイル・アーティスト/デザイナーとして成功を収め、多くの作品を発表した。やがて、過労から大病を患い、長い療養生活のなかで、陶芸と出会うことになった。「土という素材にすっかり魅せられてしまった。そのせいで、私の人生は颯爽としたテキスタイル・アーティストから肉体労働者へと、文字通り一変したのです」と彼女は語る。

1957年に京都市工芸指導所1で陶芸を学びはじめる。その前年に、博江は陶芸家の林平八郎氏に出会っており、彼がそこで教えていた。当時はまだ、女性が陶芸を学ぶことに対する閉鎖的な考え方があった時代だが、彼は博江のなかに類稀なる才能と決意をみてとったのだろう。自分の工房に来て学ばないかと勧めた。博江は林の工房で数年間、自由に陶芸に打ち込み、いくつかの公募展で入選を果たした。

1957年に、ほかの女性陶芸家たちと7人で「女性陶芸グループ」2を立ち上げた。会の第一回目の展覧会が1959年に開催され、好評を博した。多くの作品が売れ、批評家の評価も高かった。博江は同会主催の展覧会に毎年出品し、1962年には京都に自分の工房を構えるようになっていた。

1966年にコーネル・スウェンと博江は京都で出会った。コーネルは新しい仕事のためにシンガポールへ赴任する途中だった。彼はオランダ生まれで、数年前にオーストラリアの市民権を取得したところだった。陶芸に打ち込んでいた博江は、結婚は考えていなかったが、コーネルの情熱と信念により、博江の気持ちは少しずつ変わっていった。ふたりは博江の家族のそばで2年間暮らしたのち、1968年にオーストラリアに移住した。

1968年に、オーストラリアでの最初の個展が、日本から持ってきた作品を展示するかたちで、メルボルンのクラフト・センターにて開催された。コーネル・スウェンは1952年からグラフィックデザイナー/イラストレーターとして、シドニーを活動の拠点にしており、この展覧会はスウェン夫妻がシドニーに身を落ち着けてまもなくの開催となった。2度目の個展も1968年で、こちらはシドニーのストロベリー・ヒル・ギャラリーの開廊を記念する展覧会だった。

1970年、スウェン夫妻はキャンベラ近郊の小さな町クィンビアンの郊外にある「ビンビンビ」3と呼ばれる丘陵に引っ越した。既存の建物をもとに、コーネルが住居と工房を設計し、ふたりはほとんど独力でそれを建設した。その後、ふたりは敷地内にギャラリーを建てて、パストラル・ギャラリーと名づけた。

1972年、博江の3度目の個展がキャンベラの日本大使館で開催され、渡豪後に制作した作品が初めて展示された。

1971年から1973年まで、博江はキャンベラ工業大学4で非常勤講師として教えたあと、物足りなさを感じて職を辞している。ただ、当時の同僚や教え子で学び続ける意欲のある者にはもっと教えることがあると考えた。1974年に、彼女はセミプロの女性陶芸家9名を自分の工房に招いて、研究会を発足させた。メンバーは月に一度集まり、お互いを支え合ったり、技術的な助言や批評を行ったりした。この会は「ビンビンビ陶芸研究会」として知られるようになる。1984年に、博江はこのグループの活動からは抜けたが、この会は現在も続いている。

1981年、キャンベラ美術学校5の陶芸科の正式な講師として、博江はふたたび教壇に立ちはじめた。2000年に退職するまで教えたが、その後も、2005年までは客員研究員として在籍した。博江は教えるのが好きで、持てる時間と知識を惜しみなく学生に捧げた。また、その経験は彼女に大きな満足感を与えた。博江は陶芸に関する技術や信念を学生に伝えても、自分の「作風」を押しつけることはなかった。教え子が彼女の作品にそっくりな器を作るのは見たことがない。博江がもっともワクワクするのは自分らしい作品を作る可能性のある、導きがいのある学生に出会うときだった。

パストラル・ギャラリーで定期的に作品を発表したほか、デイヴィッド・ジョーンズ・ギャラリー(シドニー)、ギャラリー安里(名古屋)、日本庭園センター(ニュー・サウス・ウェールズ州カウラ)でも展覧会が開かれた。2000年には、キャンベラのクラフトACTギャラリーで、1965年から2000年までの作品を集めた回顧展が開催された。西オーストラリア、オーストラリア国立大学のドリル・ホール・ギャラリー(キャンベラ)、ニュー・サウス・ウェールズ州タンジャのナレック・ギャラリーズ、キャンベラのワトソン・アーツ・センター、ごく最近では、2020年にミタゴンのスタート・ギャラリーでも作品を発表している。

2000年に『キャンベラ・タイムズ』紙の「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」を受賞した。2006年には、産経新聞社主催の「自らの介護体験」をテーマにしたエッセイ・コンテストで、母親の介護体験を綴った作品が三位に入賞し、東京での授賞式に参加している。

2016年に、陶芸家及び教育者としてのオーストラリアでの多大な功績、日本文化の普及への貢献、日豪の相互理解の促進への寄与が認められ、日本政府より旭日双光章が授与された。

 

 

 

1 何度かの組織変更を経て、現在は、京都市産業技術研究所となっている。

2 女性たち7名が立ち上げたこのグループは、60年の時を経て、女性陶芸家の活動を支援する日本最大の組織に成長した。なお、創立者のひとりで長く会長を務めてきた坪井明日香が2022年に逝去したため、協会は2023年3月に活動を中止している。

3 スウェン夫妻の土地の名称。先住民の言葉で「たくさんの鳥がいる場所」の意。

4 現在のキャンベラ工科大学(CIT)。

5 何度かの組織変更を経て、現在は、オーストラリア国立大学造形芸術学科となっている。

メレディス・ヒンクリフ(AM*)

メレディス・ヒンクリフ(AM*)

作家、評論家として活躍する傍ら、国や地方の文化団体の資金援助や芸術擁護の活動もおこなっている。1970年代半ばに、クラフトACTの初代常勤職員として勤務。その後、キャンベラ国立彫刻フォーラムの委員会に参加し、長年にわたり、オーストラリア・ダンス会議の首都特別地域支部(オスダンスACT)の議長を務めた。スウェン博江の陶芸に関する文章を数多く執筆・出版している。

本プロジェクトでは、エッセイと略歴の執筆を担当した。

〔*AMは特定の分野で優れた貢献をした個人に贈られるオーストラリアの勲章〕