渡豪前のスウェン博江
味岡 千晶
1950年代まで
スウェン博江は、1934年(昭和9年)に、武部家の長女として京都に生まれた。両親とも代々京都に住み、父親は板金業、母親は和裁を教え、母方の曽祖父と祖父は二代で染めと呉服を商っていた。
太平洋戦争が始まると、日本の大都市の住民の多くは田舎に疎開した。1943年、武部家でもスウェンと6歳下の妹は母親と祖父と共に九州に疎開し、父親は大阪で仕事を続けたが、1945年6月、連合軍の本土爆撃が続く中、母親と娘2人は京都に戻った。2か月後の8月15日に終戦を迎えた時、スウェンは11歳だった。日本は連合軍の占領統治下となり、大都市の多くは焼け野原だったが、京都は大きな被害を逃れた。母親は家計を助けるために着物の販売業を立上げ、商売が軌道に乗ると、スウェンは着物のデザインを手伝い始めた。
スウェンの創作活動は、高校時代に油彩を学ぶことから始まった。手先が器用だったことから、卒業後は小間物を作っていたが、人に勧められてろうけつ染めを始めた。1953年のことで、当時ろうけつ染めは奈良時代の正倉院御物に例がみられたものの、日本ではほとんど作られておらず、一般には知られていなかった。スウェンはろうけつ染めの知識をもつ人を探し出して基本的な技法を会得した後、独自の技法を開発し、アクセサリーや布地を作って売り始めた。大きな取引先の社長が同級生の父親で、商売を息子に譲ってデザインに専念するにあたり、スウェンに染色デザイナーとして働くことを勧めた。2年ほど働いたが、1956年にクモ膜下炎症を患い、7ヵ月の入院を余儀なくされた。
1957年、まだ静養中だったスウェンは、美術家団体の光風会に所属する画家を何人か知っていたことから、ろうけつ染めの作品を光風会に出品した。光風会は1912年に発足した外光派洋画の団体で、1940年に工芸部を設置しており、春の公募展に出品する会員の多くは、秋の日展(後述)にも出品していた。先に東京で開催された展覧会が京都に巡回すると、出品者の1人として会場で手伝っていたスウェンは、陶芸部で工芸作品としての陶芸に出会い「目から鱗が落ちる」衝撃を受けた。
この時会場で会ったのが、当時光風会の会友で、京都市工芸指導所で教鞭をとっていた林平八郎(1923‐1980)である。(図1)林に勧められて、スウェンは工芸指導所で陶芸を学び始め、3か月後には女流総合美術展に出品して入選し、作品は大阪で展示された。
日本の美術界にとって、1950年代は、戦時中の規制・統制が解かれ、西洋からの情報が流れ込み、新しい時代の息吹に沸き立った時期であった。女性にとって社会変化はさらに大きく、終戦直後の1945年末に選挙権を得、1946年の民主憲法には男女平等が謳われた。そして1950年代には戦後の混乱が落ち着き、朝鮮戦争の景気で経済が活気づく社会を背景として、芸術家の道を選ぶ女性が増えていく。
女流陶芸を立ち上げる
陶磁器産業が伝統的に盛んであった日本でも、女性陶芸家はごくわずかであり、戦後になっても陶芸は男の仕事であることが暗黙の了解であった。しかし、変化の波は陶芸にもおよんでいた。初めて展覧会に出品した1957年、スウェンは坪井明日香(1932-2022)、皿谷緋佐子(1930-2021)他4人の女性と共に、「女流陶芸」を立ち上げた。スウェンはその事情について、「女の私たちが1人で陶芸を始めても、無視されるのはわかりきっていたけど、集まれば注目される。また、グループであれば心強かった」と語る。女流陶芸のリーダーであった坪井は、日本近代陶芸のパイオニアと言われる富本憲吉(1886-1963)に師事し、富本が中心であった新匠工芸会(1947年結成、のち新匠会)に1953年に出品してデビューした作家である。当初から毎日新聞の好意的な援助を受けた女流陶芸展は、現在まで女性陶芸家の主要な登竜門となっている。
1965年にスウェンは初めての自信作、抽象デザインをあしらった長方形の大皿を女流陶芸展に出品し、当時陶芸界の重鎮で会った石黒宗麿 (1893-1968) と近藤悠三 (1902-1985) に評価された。(図2)石黒は1955年に、近藤は1977年にそれぞれ重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されている。後に日展評議員となる安田全宏(1926-2011)からも短期間教えを受けた。
戦後日本の陶芸-日展、民芸、伝統工芸
[日展と美術工芸]
日本で毎年開かれる総合美術展である日展は、1907年に明治政府の美術振興政策として、フランスのサロンに倣って文部省の主催(文展)で始まった。その権威や規模の膨大さから、審査員や審査方法などに関する問題も多く、そのため何度か組織・名称が変わったが、戦後その運営は民間に移管され、新たに日本美術展覧会(日展)となった。今日、日展は5部門(日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書)で構成される[1] 。
日本の近代陶芸は、富本憲吉に始まったと言われる。東京美術学校でデザインと建築を学んだ富本は、英国で「生活を美しくするための工芸」を提唱・実践したウイリアム・モリスに興味を持ち、モリスについて知るため1908年ロンドンに留学した。ステンドグラスや壁紙デザイン、織物、刺繍などを自ら実践したモリスに倣って、帰国後、自分の感性の向くままにモノづくりに手を染めたが、陶芸を学び始めた友人のバーナード・リーチ(1887-1979)の通訳を機として陶芸を始めた。こうして1910年代の日本で、既存の陶芸界の枠の外で制作を始めた富本が目指したのは、粘土と釉を用いた創造的表現としての陶芸だった。当時の工芸は、伝統的な形態・文様が受け継がれ、技術の高低が評価の基準であったから、ロンドンの博物館や中東で見たパターンから着想を得た富本の作品は、陶器という素材の新しい可能性を示し、その制作態度に刺激を受けた若い美術家たちが、創造的表現としての陶芸に携わることになった。工芸素材にオリジナリティと個性の表現として取り組もうとする立場は、陶芸だけでなく、漆工芸、木工、金工、テキスタイルなど、広く工芸全般に浸透することになり、その結果、1927年、政府主催の美術展覧会(当時は帝展と呼ばれた)に工芸美術部が設置された。その歴史を背景とする戦後日展の工芸は、美術作品として審査される日本近代工芸の主流であり、その点で、日本工芸の他の二つの流れである、近世以来の伝統を受け継いだ伝統工芸および没個性の美を理想とする民芸と異なっている。
[伝統工芸]
1954年以来開催されている伝統工芸展は、1950年に制定された文化財保護法の趣旨にそって、「歴史上・芸術上価値の高い工芸技術を保護育成するため」文化庁、民間団体(NHK、朝日新聞社など)および日本工芸界が主催する日本最大の工芸展覧会である[2] 。日本工芸会は重要無形文化財保持者を中心として約200名の会員を持ち、地方支部を下部組織として、伝統工芸技術の保護育成のため、「歴史上・芸術上価値の高い工芸技術」を審査基準とし、地方での展覧会も開催する。出品資格は限定されていない。例えば、女流陶芸の設立メンバーである皿谷緋佐子は、新匠会と伝統工芸会に所属している。伝統工芸は、文化庁を通じて政府の援助を受ける唯一の分野であり、また茶道界もその主要なパトロンである。
[民芸]
日展工芸と同じく、民芸も、その源泉は上に述べた1910年代の富本憲吉とバーナード・リーチの創作活動であった。1920年、リーチは濱田庄司(1894-1978)を伴って英国に戻り、セント・アイヴスに工房リーチ・ポタリ―を設立する。濱田は当初画家を志したが、後に陶器を表現素材に選び、志を同じくする河井寛次郎(1890-1966)と共に陶芸の技術を学んだ。富本とリーチの作品に自分の方向を見出し、日本を外から学ぶために、リーチの帰国に同行する決心をしたのだった。セント・アイヴスで、2人はスリップウエア(化粧土で装飾され、低火度で焼成された陶器)などの民衆陶器に見られる没個性的な「健康さ、自然さ、美しさ」を追求した。柳宗悦(1889-1961)の言う「作られたのでなく、生まれた美」である。富本も民衆的工芸を愛し、当初柳らの活動に加わったが、民芸が主張する理想は、都会的な洗練さと独創性を追求する富本の仕事と相いれず、1930年代には民芸グループと袂を分かつこととなった。
戦後の欧米・オーストラリアの陶芸とスウェンの渡豪
バーナード・リーチは、中国宋代の陶磁器の美を自己の理想とし、日本で展覧会を開き、1934年に来日するなど、東洋と西洋の陶磁器の歴史上に自己の制作を位置づけながら、近代作家としての方向を模索しつつ制作を続けた。そして1940年に、自己の技法と美学をまとめた『陶工の本(A Potter’s Book)』を出版する。歴史的作品が「個性」でなく「文化」の現れであるとし、個人陶芸家が目指すべき美の基準として「自然さ」や「土地の材料を使用する」などの主張は、19世紀後半の英国で、醜悪な機械生産品に対抗して起こったアーツ・アンド・クラフツ運動の理想と共鳴するものであり、同時に英国や北米で陶芸を目指す若い人々に彼らが必要としていた自作の判断基準を与えた。こうして『陶工の本』は、第二次大戦後、米国、カナダ、ニュージーランド、オーストラリアなどの各国で帰還兵を中心とする若い陶工たちの「聖書」となり、「リーチ・ハマダ様式」(あるいはMingei 様式)は、日本の陶芸と同義となるほど知れわたることになった。
第二次大戦後の英国と北米を中心とした英語圏でのスタジオポタリー(陶芸作家の制作活動)は、上記のリーチ・ハマダ系統と、バウハウス系統のモダニズムの2系統が存在したが、オーストラリアでは、リーチの『陶工の本』の美学を全面的に受け入れた作家たちを主流として、ピーター・ラシュフォース(1920-2015)らの陶芸教師が1956年にNSW州陶芸家協会を結成した。その結果、リーチ(1962年)、濱田庄司(1965年)、河井寛次郎の甥で陶芸家の河井武一(1964年)らの民芸系統の陶芸家がオーストラリアを訪れた。オーストラリアの陶芸家も1950年代から日本で学び始め、各地で異なった様式や技法に出会った。1963年に京都を訪れた英国生まれのレズ・ブレークバラ(1930-2022)に主要なインスピレーションを与えたのは富本の仕事であった。1959年からNSW州ミタゴンにあるスタート陶芸工房の責任者となったブレークバラは、日本から陶芸教師を招きたいと考え、河井武一に相談した。そして河井の斡旋で志賀茂雄(1928-2011)が1966年にスタート工房に到着した。志賀は、特攻隊員として出陣する直前に終戦を迎え、彼が育った新潟で、富本憲吉に教えを受けた斎藤三郎(1913-1981)から陶芸を学び、その後京都に出て河井武一と親しくなった。志賀はのちシドニー郊外に工房を持ち、1979年に帰国したが、彼の2年後に来豪したスウェンとは、作風の違いを超えて強い友情で結ばれた。
志賀がスタート工房に到着した1966年、スウェンは京都でオランダ人デザイナーのコーネル・スウェンと出会う。コーネルは1952年にオーストラリアに移住し、休暇でアジアを訪れていた。コーネルと博江はその年に結婚したが、2人はコーネルがスウェンやその家族が育った京都を理解する時間が必要と考え、続く2年間京都にとどまった。スウェンは当時経営していた軽食店を閉めて陶芸に専念し、その年に「力試し」のため、日展に「線花瓶」を出品した。権威ある日展に入選するためには、数回出品するのが普通だとされていたが、「線花瓶」は初出品で初入選となった。(図3)そればかりか、当時非常に影響力のあった工芸批評家の吉田耕三は、スウェンの作品を含む9点の陶芸作品をとり上げて、次のように評した。
これ等の作品には量感もありバランスも美しく、それぞれの素材の持つ特色を有効に生かしながら自由な想像力を駆使して新しい工芸の世界を開拓している。そこには、従来の民芸や伝統工芸に見られない良い意味での日展工芸の典型ともいうべきフォルムが打ち立てられようとしている。私は、このあたりに今日の日展工芸が目している純粋な造形と、新しい建築空間を装飾する用との、調和のある融合の魅力を発見できた。
しかし、スウェンは吉田の評を読んでいなかった。日展作家となる気はさらさらなく、作品が入選したことで自分の力量に納得することができたスウェンにとって、批評は無意味であったし、日展への出品もこれが最初で最後となった。団体など組織の人間関係の軋轢に自らの信条を妥協させることを嫌う性格から、女流陶芸も脱退した。日本でもオーストラリアでも、この性格はスウェンの仕事と生き方の指針であったと思われる。
スウェンがオーストラリアに持ち込んだ陶芸は、明らかに日展の近代工芸に属していた。しかしながら、作品と違って形に残らないもう一つの重要な貢献は、彼女の美的感性である。その感性を育てたのは、生まれ育った京都の文化、何世紀にもわたって、人々の日常感覚にしみ込んだ文化であると彼女は言う。キャンベラの学生の間では「自分の作品の価値を本当に知りたかったらヒロエにきけ」と言われた。聞く耳を持つ者にとって、スウェンの単刀直入な批評は、陶芸の歴史の浅いオーストラリアでは特に貴重だったといえよう。
最後に、彼女が共鳴した作家数人の作品を挙げておきたい。(図1)(図4-6)
図1
林平八郎 (1923-1980)
花器
(作品詳細不明)
日展入選作
『現代の工芸作家展:京都を中心とした』第8回世界クラフト会議・京都協賛展 京都市美術館(1978年)より転載
(画像著作権者は現在のところ不明)
図2
スウェン博江
無題 1965年
陶器
高さ10.5 x 60 x 32cm
作家蔵
図3
スウェン博江
線花瓶 1966年
『日展史』「第9回日展 工芸美術」より転載
図4
河合誓徳 (1927-2010)
大分県の浄土宗園浄寺住職の息子として生まれる。戦争中は海軍航空隊に所属、戦後京都で日本画を学び、後有田と京都で陶芸を学ぶ。六代清水六兵衛に師事。1952年以降日展に出品、後に日本現代工芸美術家協会(1961年設立)に出品する。陶芸家河合栄之助(1893-1962)の長女と結婚し、河合家を継いで河合誓徳となる。作品は1988年のオーストラリア建国200年新工芸10回記念展を含め、海外展にも数多く出品する[3] 。「草映」は、第13回日本新工芸(1991年)で内閣総理大臣賞受賞[4] 。
草映 Sōei
1991年
磁器 porcelain
31 cm ht
大分県立美術館蔵
© 河合徳夫 KAWAI Tokuo
図5
藤平伸 (1922-2012)
京都五条坂に工房を持つ父政一の次男として生まれる。政一は同じ五条坂の河井寛次郎(上掲)とも親しかった。1953年、日展に初出品し初入選、以後も日展に出品を続け、1957年には特選・北斗賞を受賞。1973年、京都市芸術大学教授に就任[5] 。
水指 Water Jar (Mizusashi)
1993年
陶器
高さ19.8cm
茶道資料館蔵
© 藤平伸記念館(代表 藤平三穂)
図6
西川實(1929-)
京都に生まれる。1948年京都市立第二工業学校卒業。日展の重鎮作家である叶光夫(1903-1970)と楠部弥弌(1897-1984)に師事。1964年、日展特選・北斗賞受賞。作品は、ハーヴァード大学のアーサー・M・サックラー美術館をはじめ、海外にも多く収蔵される。国際陶芸アカデミー会員[6] 。
Lamplight ともしび
earthenware/stoneware
50 ht x 20 x 16cm
© NISHIKAWA Minoru 西川實
(2023年1月)
[2] 日本工芸会ウエブサイト参照https://www.nihonkogeikai.or.jp/about (2022年7月14日閲覧)
[3] 「河合誓徳 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28481.html (閲覧日 2022-10-14)
[4] http://www.nihon-shinkogei.or.jp/sinkougeinituite/13/13.htm (閲覧日 2023-1-27)
[5] http://fujihiramiho.com/fujihirashin.html (閲覧日 2022-10-14)
[6] https://kogei.kyoto/artists/nishikawa_minoru.html; http://www.utsuwadouraku.com/x_i/i117.html (閲覧日 2022-10-14)
味岡千晶
ニュー・サウス・ウェールズ州立美術館における日本美術担当の元学芸員。それ以前は、SBSテレビで日本語字幕制作の責任者として活動。2012年から15年まで豪日交流基金の理事を務めた。日本の近代版画や工芸に関する出版、講演、展覧会企画を手がけ、現在は、公共施設や個人コレクターのための日本美術コンサルタント・翻訳家として活動している。
本プロジェクトでは、エッセイの執筆と動画の字幕制作を担当した。