スウェン博江との出会い 

アラン・ワット

 

私がスウェン博江の作品を初めて目にしたのは1968年4月のことだ。メルボルンのヴィクトリア国立美術館1で開催された、オーストラリアを代表する陶芸作家を集めた展覧会に彼女が参加したときで、それは偶然にも、オーストラリアで開かれた彼女の最初の展覧会だった。

ほかのオーストラリア人陶芸家の作品の多くは見慣れたものだったが、スウェン博江の作品はあきらかに異質で、見たことがないものだった。この展覧会の出品作品の大部分は、日本の民藝の影響を強く受けていた。当時、民藝の陶芸は、絶大な影響力を持っていたバーナード・リーチの著作『陶工の本』によって西洋の陶芸家たちの知るところとなり、注目を集めていた。

バーナード・リーチは日本の民藝芸術運動に傾倒しており、その民藝の陶芸とイギリスの村の陶器造りの伝統との関係に対する思い入れが強かったので、彼の著作を読んだ人たちは、当時の日本の陶芸界の動向を幅広く理解するというよりも、民藝一辺倒の偏った見方を抱くことになった。

『陶工の本』には、前衛的な「走泥社」や現代陶芸を扱う「日展」といった、当時の日本の主要な陶芸運動についての言及はほとんどない。一方、スウェン博江は、オーストラリアに移住する前に――つまり、私がメルボルンでみた展覧会の数年前ということだが――どちらのグループとも関わりがあった。

私がスウェン博江の作品にとくに惹かれたのは、同じ会場に並んでいたほかの作品とは異質だったからというだけでなく、それが個性的で現代的、美的で彫刻的な特性をそなえていたからでもある。

博江に直接会ったのは1979年になってからだ。キャンベラ近郊のカパカンバロン・ギャラリーで開かれた私の個展を、彼女が見にきてくれた。若い日本人陶芸家仲間の井上俊一氏と一緒だった。井上氏とは、彼がベンディゴ高等教育大学の客員アーティストを務めていたときに、メルボルンで会ったことがあり、すでに面識があった。博江はクィンビアン郊外のパストラル・ギャラリーに隣接する工房で、井上氏とふたりで黒陶技法のワークショップを行なっているので、参加者が制作した作品を見に来ないかと招待してくれた。

黒陶の炭化工程を経ると、作品の表面は光沢のある艶消しの黒に仕上がる。密閉した窯のなかに炭素濃度の高い環境を作るのだが、このときは松の葉を入れてから窯を密閉した。発生する煙によって炭素濃度の高い環境が生まれ、それが低火度陶土の多孔質の表面に浸透する。それから何年も経ったあとで、この焼成法を自分の作品に取り入れたので、このときの経験が私に何らかの影響を与えたのは間違いない。

その時点ではまだ知らなかったのだが、翌年、私はキャンベラ美術学校の陶芸科の責任者に任命された。この新しい美術学校の初代校長ウド・セルバックが、私とおなじように、スウェン博江をぜひ陶芸科の教員として迎えたいと考えていたので、彼女に打診したところ、要請を受けてくれて、翌年に就任した。

博江はおもに1年生の手びねりの壺制作の指導を担当し、基礎の習得に重点をおいたやり方で、器の制作方法を伝授した。彼女が学生たちに課した演習は、いわゆる創造的な活動とは程遠いものだったが、それは成型方法の基礎を教えることを目的としており、かれらが将来、創造性に富んだ芸術家として活躍するために大いに役立つものだった。

学生たちは同じ形や大きさの円筒形をたくさん作るのは退屈だと感じ、最初は尻込みしていたが、しばらくするうちに、焼成中に割れたり壊れたりすることを心配せずに、独創的なフォルムに挑戦できるのは、その練習で身につけた技術のおかげだということに気づいた。博江の自らの技術に対する確固とした信念、忍耐と公平性は、最終的には教え子全員の感謝と称賛を勝ち取ったのだった。

博江が陶芸科の教師のひとりとして、陶芸教育に献身し、協力を惜しまず働いてくれたこと、また、ほかの教員たちとともに陶芸科の円滑な運営のために尽力してくれたことに、私は深く感謝している。陶芸という表現方法に対する姿勢やアプローチは、教員ごとにそれぞれ異なっていたが、その多様性のおかげで、学生たちは幅広い技術・工程・知識を身につけることができた。

陶芸科のほとんどの教員と同じように、博江は現役のアーティストとして作品を発表しつづけた。そのおかげで、陶芸家をめざして勉強中の学生たちは、自らの将来の生活を思い描くことができた。今や、オーストラリアの陶芸界は劇的に変化し、博江の初期の作品が非常に異質なものにみえた頃とは様変わりしたが、博江は工房にて自らの新しい陶芸を休みなく日々追究するなか、ゆっくりと着実に芸術家として進化を遂げてきた。

自己顕示欲とは無縁な性格の博江は、おもにキャンベラ地域で定期的に作品を発表し、地道な活動をつづけてきた。オーストラリアの陶芸の発展に対する多大な貢献が認められ、多くの作品がオーストラリア国立美術館に収蔵されている。さらに最近では、2016年に日本文化の普及と日豪の相互理解への貢献が認められ、日本政府から旭日双光章が授与された。

キャンベラ美術学校はのちにオーストラリア国立大学の一部となったが、そこで一緒に働いた19年間を通じて、私たちはとても親しい友人となった。われわれの友情は現在にいたるまで続き、50年以上前に彼女の作品を初めて目にしたときに抱いた敬愛の念は、今も変わっていない。

 

 

1 この展覧会は、ヴィクトリア国立美術館(NGV)のかつての所在地――メルボルン中心部のスワンソン通りとロンズデール通りの角――で開催された。NGVはヤラ川の南側に移転して、1968年8月20日にオープンした。私たちが見た展覧会は、移転前のNGVの隣にあった美術館で開催されたものと考えられる。

 

 

アラン・ワット

アラン・ワット

1979年から1998年まで、オーストラリア国立大学芸術学部陶芸科の責任者を務める。同校にて、20年近くにわたり博江とともに陶芸を教えた。オーストラリアと世界の陶芸界において重要な役割を果たす。彼の作品は、オーストラリア国立美術館、豪各地の州立美術館、オーストラリア、イギリス、ヨーロッパ、アジアにおける各地域や機関、企業や個人所有のコレクションに所蔵されている。

本プロジェクトではエッセイを執筆した。