オーストラリアのヒロイン
豪州陶芸界におけるスウェン博江の功績を考える 

グレース・コクラン

 

スウェン博江(旧姓武部)は、50年以上にわたって、オーストラリアで陶芸に携わる人たちの主要なインスピレーションの源となってきた。彼女が持ち込んだスタイルは、当時のオーストラリアではめずらしいものだったが、その後も引き続き、陶芸家たちの重要な規範であり続けている。1934年に京都で、母の生家が染め物と呉服商を営む家系に生まれた博江は、油絵と布地のデザインから美術の道に入った。1957年に陶芸に出会う。はじめは京都市工芸指導所で、最初の女子学生として陶芸家、林平八郎氏から学び、その後、数年間、林氏に師事したのち、1962年に自分の工房を構えた。当時の日本で、女性がこのような修行の機会を与えられるのは稀有なことだった。戦後の1945年に女性参政権が認められた日本で、博江はいち早く職業として陶芸をはじめた女性の一人である。

1960年代中頃、のちに夫となるアーティストでグラフィック・デザイナーのコーネル・スウェンに出会う。彼はオランダ出身で、1951年にオーストラリアに移住していたが、ちょうど日本を訪問中だった。1968年にふたりはシドニーに移り、その後、ニュー・サウス・ウェールズ州クィンビアン近郊のビンビンビに移転し、1970年前半に工房を併設したパストラル・ギャラリーを建てて経営した。後年、街の中心部に近い場所に移った。1974年にオーストラリア国籍を取得した博江とコーネルは、生まれ育った文化環境とはまったく異なり、当時「田舎(ブッシュ)の首都」とも呼ばれていたキャンベラ近郊での生活に適応する必要があった。週末になると刺激のないキャンベラを逃れる住民も多かったが、スウェン夫妻にはその土地で生活を営み、地域の互助的なネットワークや文化的コミュニティの一員として仕事をしたいという思いがあった。そして、ふたりはそれを見事に実現したのだ。

博江は日本の伝統文化と日本のモダニズムの両方の影響を受け、日本的な要素とオーストラリア的な要素の両方を取り入れながら、着想や表現をたえず刷新してきた。また、博江とコーネルの作品は、多くの点でお互いに影響を与え合っているようにみえる。1973年に、ふたりはパストラル・ギャラリーで最初の展覧会を開いた。このギャラリーは極めて洗練された、それでいて心地よく温かみのある空間で、1986年の火災にもかかわらず、多くの優れたデザインや心のこもった作品を生み出した。2004年、クィンビアンの市議会は、同市と山梨県南アルプス市との姉妹都市協定の締結を記念する屋外モニュメントのデザインを、博江とコーネルに依頼した。博江の説明によると、「着物を大きく拡大したような輪郭で、円盤状のステンレス板が6枚ついており、それぞれにオーストラリアを象徴する動物が描かれたもの」だという1

 

当時のオーストラリア陶芸界で何が起こっていたか?

戦後の陶芸界におけるもっとも著しい変化として、従来の「アート・ポタリー」〔訳注:実用ではなく鑑賞を目的として制作された陶磁器〕から人びとの関心が離れつつあったことが挙げられる。それ以前は輸入磁器に手描き装飾を施したり、低温度焼成で器や彫刻的な作品をつくる活動が主流で、戦前の産業陶器や工場での作業経験に起源を持つものが多かった。第一次世界大戦前から活動していたアラン・フィンレイとアーネスト・フィンレイが、個人の工房を構えて制作した最初の陶芸作家(スタジオ・ポター)とみなされており、オーストラリア全土の陶芸家たちが彼らに続いた。なかでも重要なのは、1940年代から1950年代にかけて、メルボルンとその周辺で個人やグループで活動していた芸術家やスタジオ陶芸家たちで、そこには、ヴィクトリア州マランビーナに土地をもち、日常生活や地域社会の様子、神話や文学を題材にした作品を制作したボイド家の人びとも含まれる。また、現在ではほとんど顧みられることがないが、1950年代には小規模で半工業的な家庭用陶器類の製造も盛んだった。これらの製造元の多くは1960年代初頭に閉鎖したが、日本などから競争力のある品物が輸入されるようになったことが、そのおもな原因だった。一方、陶芸家たちの方でも、小規模の工業生産よりも、個人工房での「芸術的」な表現活動を行なうことに重きをおくようになっていった。

1960年代初めには、高火度焼成陶器(ストーンウェア)〔訳注:炻器。磁器に近い性質をもつが、透光性や吸水性はほとんどない焼き物〕の美と、その制作技術が圧倒的な支持を集めるようになっていた。スウェン博江がオーストラリアにやってきた1968年には、「アングロ・オリエンタル」美学として国際的に知られる美的価値観はすでに確立していたのである。それはストーンウェア――のちには磁器――に焦点を当て、中国宋代の陶器の微妙な美しさや、日本とイギリスの伝統的な民衆陶芸に価値を見出す美学であり、より直接的には、哲学者の柳宗悦が率いた20世紀初期の日本の民藝運動の影響を受けて生まれた。1920年に日本から帰国して、濱田庄司とともにセント・アイヴスに窯を開いたイギリス人陶芸家バーナード・リーチが、1940年に出版した『陶工の本』のなかで論じたことから、この美学は西洋で大きな反響を呼んだ。このアングロ・オリエンタル陶芸運動は、オーストラリア全土の陶芸教育の現場――イースト・シドニー工科大学でのピーター・ラッシュフォースの陶芸教室や、ミタゴンのスタートでのアイヴァン・マクミーキンと、彼の後輩であるレズ・ブレイクブロウとポール・デイビスによる陶芸ワークショップ――で推進され、発展していた。

戦後当時、この新しいストーンウェアの美学とそれが理想とする価値観――地元の天然素材を用いて、手作業で制作したり、電気やガスだけでなく薪をつかって焼成し、伝統的な釉薬を再現したりする作業を通して得られる調和、簡素さ、おおらかさ――をいち早く作品に取り入れたのは、個人工房を構えて活動する「スタジオ」陶芸家たちだった。1941年には、元エンジニアで陶芸家のハロルド・ヒューアンが、リーチの本を参考に、初のオーストラリア国産のスタジオ陶芸家向けのろくろを作った。1956年に、全国的なネットワーク組織としてオーストラリア陶芸家協会(現オーストラリア陶芸協会)が設立され、リーチがオーストラリアとニュージーランドを訪問した1962年以降、協会機関誌『オーストラリアの陶芸』の刊行が開始されるようになったほか、州や地域ごとの陶芸家協会が各地に作られ、急速に発展した。

このような関心の高まりを受けて、1960年代初頭から、オーストラリアの陶芸家が日本に渡航して学んだり、日本の陶芸家をオーストラリアやニュージーランドに招いて、講演やワークショップ、展覧会が行われたりするようになった。最初にオーストラリアを訪れたのは河井武一で、日本滞在から戻ってきたばかりのレズ・ブレイクブロウの招きにより、1964年にミタゴンのスタートでワークショップを行なっている。また1965年には、濱田庄司がニュージーランドから帰国する途中でシドニーに立ち寄り、イースト・シドニー工科大学とニュー・サウス・ウェールズ大学工芸学部でそれぞれ、ピーター・ラッシュフォースとアイヴァン・マクミーキンとともに、地元の粘土をつかって、濱田のために特別に作られたろくろでの制作を実演してみせた。当時、交流のあったこれらの陶芸家はみな男性で、全員がすぐに日本に帰国した。唯一の例外は志賀重雄で、彼は1966年から10年以上にわたってオーストラリアに滞在し、2009年にふたたび来豪した。彼らとは異なる影響をもたらしたのが小路光男で、彼は1973年から74年にかけてオーストラリアに滞在したあと、シドニー美術大学で教鞭をとるために1978年にふたたび来豪した。小路は「走泥社」に参加していた陶芸家だが、当時のオーストラリアでは、1940年代後半から活動していたこの前衛陶芸家グループについては、ほとんど知られていなかった。展覧会「走泥社――日本の前衛陶芸」が1979年から80年にオーストラリアで開催され、出展作品の一部はニューカッスル・アート・ギャラリーに収蔵されることになったが、ジョン・テシェンドルフが指摘したように、この展覧会はオーストラリア人が自らの伝統とみなしてきたものについて再考を促した。さらに、ジャッキー・メンジーズが企画して、1983年にニュー・サウス・ウェールズ州立美術館で開催された「プロジェクト42――オーストラリアの現代日本人陶芸家」展でも、オーストラリアの陶芸界における日本の影響に光が当てられた。これは近年オーストラリアに居住、あるいは滞在した経験をもつ日本人陶芸家の作品を網羅した展覧会で、スウェン博江の作品も展示された。

当然のことながら、日本以外の国々の陶芸の影響もあった。アメリカ人陶芸家のピーター・ヴォーコスやポール・ソルドナーが1950年代にカリフォルニアではじめた表現主義的な陶芸作品の影響は、1960年代のオーストラリアに入ってきた。また、西オーストラリア州のアイリーン・キーズや、当時はまだブリスベンで活動していたミルトン・ムーンは表情豊かな独自の様式を確立していた。イギリスに渡った者たちは、ヨーロッパ大陸からの亡命者で、バウハウスの影響を受けたモダニズムの造形で知られる陶芸家ルーシー・リーやハンス・コパーなどと知り合った。このような新しい潮流をいち早く取り入れたのは南オーストラリア州だった。陶芸科と彫刻科を合併した一部の教育機関で、若い陶芸家たちが彫刻的な表現に刺激されたのである。また、マーガレット・ドッドなどの陶芸家が、カリフォルニアのロバート・アーネソンのもとで学び、「ファンク・アート」〔訳注:1960年後半にカリフォルニアを中心に、美術界に君臨する抽象表現主義に対する反動から起こった運動。抽象的なものを排除し、具体的なもの、日常的なものを重視する。ロバート·アーネソンがファンク·アートとしての陶芸の運動を牽引した〕としての陶芸という着想をたずさえて、1960年代後半に帰国して暮らしたのも南オーストラリア州だった。オーストラリアのほかの地域では、ピーター・トラヴィスが1964年頃から型成型で部分ごとに作って模様を施した壺を、バーナード・サームが個人・社会的な関心事を扱った彫刻作品を作っていたほか、マリア・ガザードやジョーン・キャンベルは幅広い陶芸や美術作品から着想を得て、手びねりの作品を制作していた。

その後の数十年は、陶芸の基本となる伝統的な技法を用いた、さまざまな現代的な表現が試みられてきたが、「アート」としての地位と形態を重視する傾向、あるいは手作りのものを「デザイン」することに回帰する傾向も現れた。しかし、その根底には、土を用いた技法で、自らの手で作品を作りたいという欲求があった。またこの間、日本を含む海外からの陶芸家や学生の移住も著しく増えており、博江はそのような人たちの先駆者としても重要な存在である。

スウェン博江の位置づけとは?

そのなかで、博江はかなり異質な存在だった。日本文化を出自とする独創的な陶芸家として、日本の現代陶芸に直接触れる機会を私たちに与えてくれただけでなく、フォルムや装飾、意味づけの選択にあたり、非常に自律的で独自の美的価値観を持っていた。彼女は当時としてはめずらしい女性の日本人陶芸家であり、ほかの多くの日本人陶芸家とは異なり、オーストラリアに居住するためにやってきた。女性がプロの陶芸家になることは難しかった当時の日本で、博江は並々ならぬ決意と自立心でこの道を選んだのだった。

1968年にメルボルンで開かれた来豪後初の個展以降、その後の多くの展覧会を通じて、博江は独自のやり方で陶芸に取り組んできた。彼女は一貫して、一点物の手びねりの陶器作品を作り続けてきた。縄状の粘土を積み上げたり、型やたたら板を用いたりして成形することが多く、紙を折りたたんだような角張った効果や、さまざまな独特の図案や釉薬の装飾が表面に施されていることもある。粘土や釉薬の使い方や、形と装飾の調和を求める姿勢には、つねに日本的な繊細さが感じられるが、彼女は特定の流派には属さず、自己を批判的に評価しながら独自の表現を追求してきた。ろくろを使うことは稀であり、成形には手びねり、あるいはたたら板や型を用い、釉薬の微妙な色合いを帯びた表面には、図案やモチーフが効果的に転写あるいは刻印されている。彼女は一貫して「どんなに彫刻的な作品であっても、陶器というからには、器として、ある程度の実用的な機能を果たすべきだ」2という考えを抱いてきた。1972年、彼女は展覧会の序文に次のように記した――「幸運にもここでは美しい環境に恵まれ、樹木の皮の印象的な色や質感、さまざまな鳥のさえずり、年月を経て形成された岩、素晴らしい夕日、信じられないような星空を見ることができる。自然と完全に調和し、一切の虚飾を排して(中略)頭ではなく心から語りかけること、それが私の陶芸の哲学である」3

スウェン博江はパストラル・ギャラリーをはじめ、オーストラリア全土での展覧会で、訪れる人びとに感動を与える作品群を発表しただけでなく、多くの場所で教鞭をとり、学生たちに技術と励ましを与えて、彼らが着想と実際の制作や、作品のかたちと表面の調和について独自の考えを得られるように導いた。1971年から73年にかけて、当時のキャンベラ工業大学で非常勤講師を務め、1974年から10年間、パストラル・ギャラリーの敷地で研究会を開いたほか、1981年から18年間にわたり、キャンベラ美術学校(現在のオーストラリア国立大学芸術デザイン学部)で教鞭をとった。また、タスマニア(私が彼女に初めて出会った場所)やクイーンズランドなど、ほかの州に招かれてワークショップも開催した。

博江の作品は国立・州立美術館、地方の美術館やギャラリーはもちろん、キャンベラの各国大使館や在外公館、個人コレクションにも所蔵されている。2000年と2018年には、クラフトACTとキャンベラ・ポッターズ・ギャラリーで、それぞれ在豪30周年と在豪50周年を記念する展覧会が開かれ、2018年、博江はキャンベラ陶芸家協会の終身会員に選ばれている。また、2020年には陶芸生活60周年を記念する展覧会がスタート・ギャラリーで開催された。2000年には『キャンベラ・タイムズ』紙主催の「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」に選ばれたほか、2016年には日本政府から旭日双光章が授与された。受賞理由は、日本(出身)の女性陶芸家の先駆者としての功績、異なる文化間の境界を超えて活躍する陶芸家としての功績、またオーストラリアでの陶芸教育における教育者としての貢献を評価するというものだった。

2018年に開催された「50の幻想的な鳥たちの飛翔のかたち(フィフティ・フライツ・オブ・ファンシー)」展についての文章のなかで、ケリー=アン・カズンズは次のように書いて、スウェン博江の作品に対する姿勢の特徴を要約している。

タイトルにある「フライツ・オブ・ファンシー」とは、創造的な想像力の自由な飛翔を意味するが、それは本展の50個の器の一つ一つを彩る鳥のイメージでもある。この鳥たちが棲む50個の陶器の器は手びねりで作られ、その本体は白色または黒色をしている。浅い鉢、丸い鉢、細長い鉢、四角い器、長方形の器、変形大皿など、形状はじつにさまざまだ。いくつかの作品――とくに「高みにある住処(すみか)〔下の写真を参照〕」――では、器の下方にリズミカルに刻まれたパターンが、起伏するブリンダベラの山並みを思わせる。陶器の器にはいずれも釉薬が施されているが、イメージが巧みに用られ、有機的に器を包み込むようなデザインになっている。スウェンの用いる鳥のモチーフは、広島や長崎とも結びつく折り鶴を連想させる。それは希望、癒し、平和の象徴として心を打つ。スウェン博江の創作活動は刺激的だ。彼女の創りだすイメージは詩的で、視覚的に美しい。それは彼女の個人的な経験に関わるものであり、アーティストの豊かな創造力の証しでもある。スウェンの作品は、そのような非常に親密な対話に加わるように、見る者すべてに手を差し伸べている。4

 

 

 

 

             〔写真提供: スターク由美子(左)/坂本佳寿子(右)〕

 

このようなかたちで、オーストラリアの(そして世界の)陶芸に対するスウェン博江の貢献を認める活動に参加できたこと、また、彼女を支えてきたパートナーのコーネル(残念なことに、2022年に他界)とともに、彼女が持ち前のおおらかさと愛情深さで、オーストラリアでの創作活動に熱心に取り組む姿を、これからも見守ることができるのは光栄なことである。5

                                                      2022年8月25日      

 

 

1クレア・フェンウィック「クィンビアンのパストラル・ギャラリー創立者が逝去」(『アバウト・リージョナル』2022年4月26日)からの引用。

https://aboutregional.com.au/queanbeyan-pastoral-gallery-creator-dies/

2 著者とのインタヴュー、2000年。

3 『キャンベラ・タイムズ』1972年5月3日、19頁。

4 ケリー=アン・カズンズ『キャンベラ・タイムズ』2018年11月27日。

5 このエッセイは、グレース・コクラン『オーストラリアにおける工芸革新運動――その歴史』(1992)収録の文章と、2000年のクラフトACTギャラリーでの展覧会のオープニング・スピーチに加筆修正したものである。

 

 

グレース・コクラン(AM*)

グレース・コクラン(AM*)

フリーランスのキュレーター、歴史家、著述家。50年近く工芸アーティストたちや関連団体と仕事をしてきた経験をもつ。シドニーのパワーハウス・ミュージアムの元シニア・キュレーターで、『オーストラリアにおける工芸革新運動――その歴史』(1992) など著書も多数あり、関連委員会や教育プログラムのメンバーとしても活動している。40年にわたり、展覧会の開催や、オーストラリアや海外の会議での講演、さまざまなカタログや雑誌、出版物への執筆、多くの博士論文や修士論文の審査を行っている。

本プロジェクトではエッセイを執筆した。

〔*AMは特定の分野で優れた貢献をした個人に贈られるオーストラリアの勲章〕